みやぎ県民大学自主企画講座(3)

takibata2006-11-03

 さて、常設展示室の「郊外」の前での有川さんのお話。「言葉で伝えようとすると、この絵は色の幅が狭い。色彩が持っている効果、組み合わせの効果、幻想的、夢幻的な。色彩の狭い幅の中のニュアンス。僕自身の中に、松本竣介を抵抗の画家と単純にまつりあげてしまうことに対する違和感があった。松本の絵に、線は大事な要素で、線という表現の力に若い時から(着目していた)。カラス口で描いた線や、引っかいてできる線。都会的なモダンなモチーフ。西欧への憧れ。1940年頃、○や△描いたりするのは、この非常時にけしからん、といった座談会があり、(非協力的な画家には)絵の具の配給をしないというような脅しがあった時代に、松本は『美術はわけの分からないもの、一人よがりなもの』といった寄稿をした。彼の頭の中に持っているデリカシー、新しい生活への希望、それらを踏みにじっていくものに対しての違和感。彼は耳が聞こえなかったので、お兄さんが絵でも描いたら、と勧めた。松本の絵を、静かな感じ、音がないと言う人もいるが、これは松本の世界であって、(彼自身が生み出したものだろう。)・・・池袋界隈に住んで、池袋モンパルナスと言われたが、上野に通うのに便利で、アトリエつきアパートを(貸し出していたが)、モンパルナスがどうとか言いながら、窓を開けると外には畑があって。・・・松本は、時代のズレに苦しみ、言ったら特攻に連れて行かれる、・・・(絵は)一発では答えが出ない、同じだけどちょっと違う、時間もいる、虎の巻きのような答えがあるわけではない。」
 途中で、隣に掛けてあった猪熊弦一郎の絵と額縁の話になり、この話もとても興味深かったのだが、それは省略する。
 このあと、映像室に戻って、この話の続きとして、有川さんは、「松本の絵には感じる、語りかける力があって、それゆえに、あの絵【画家の像】大嫌い、という人もいる。洲之内徹もその一人で、『世の中しょって立ってるみたいな』と毒づいたが、洲之内自身は松本竣介そのものが嫌いだったわけではなく、その証拠に洲之内コレクションの中に、<白い建物><ニコライ堂>も入っている。これは、洲之内が自分の人生に重ねて、彼自身の違和感を(表したものだろう)。絵を見るということは、(個人の)体験とのある種の関わりがある」と語られた。なぜか、メモには漏れているが、「絵のことを人に伝えようとして、一生懸命言葉に置き換えようとすると」といった内容の言葉が冒頭にあり、そのことがとりわけ、私の印象に残った。「きれい」とか「すばらしい」とか以外に、人に伝えるボキャブラリーのなさに、日ごろ情けない思いをしているからだ。
 で、このあと講座は、皆の掛け合いになっていき、関口さんの押しに対して、齋さん、有川さんとも、学芸がギャラリートークをしたら、学芸の話風にみちゃうけど、好きに見なくちゃダメ、という話になるが、それはワープする。それで、再び有川さんのお話。
 「研究者というのにも違和感がある。研究しても読んで分かるというものではなく、25年間この美術館に勤めていて、さっきのような色の幅、ということが分かったのは10年前くらい。『幅』と言うと楽になってしまった。絵を見る人は、漠然と思っていたのが、言うと何かが消えていくんだろう。何だろう、何だろう、と見に来る。自分の中での発見は宿題のようなもので、例えば靉光展があるのだけれど、(解説を)書きなさいと言われ、書くったって、ハタと合点する何かがないと書けない。いつも崖っぷちにいるようなものだ」と、この後も子ども頃の面白いエピソードが続くのだが、これもここでは省略。
 私としては、講座の目的外使用のようで申し訳ないのだが、とにかく初めて伺う有川さんの生トークが面白かった。この講座には、きりっとした和服の女性が来られていて、このAさん、「80年も生きていると、意地悪ばーさんになってね。説明聞くのは好きじゃなくて、勝手なイメージで見ている」と。Aさんは、かの有名な(?)、齋さんが言及するところのお花の先生だったのね(と、私の頭の中で、文献と人物が一致する)。
 こんな具合で、参加者がめいめい堂々と自分の意見を述べる、宮城県美術館開館25周年の成果を垣間見た自主企画講座なのだった。(聞き間違いがあったらごめんなさい)
 写真は、塩釜―松島間の船上から。