GAJAPAN82

 GAJAPAN82の特集「現代日本における美術館事情」は面白い。
http://www.ga-ada.co.jp/japanese/ga_japan/index.html (→82をクリック)
特集のラインナップは以下の通り。
 座談会 アートと美術館建築の可能性 隈研吾×長谷川裕子×二川由夫
 インタビュー 市民のメディアとしての美術館 建畠晢
         ネクスト・ホワイト・キューブ 南條史生
         コミュニティー・アートとミュージアム・アート 村田真
 一番、オーソドックスな感じなのが、建畠さん。

 美術館が近代社会のシンボルであるのは、そこに市民がいるのが前提です。しかし、特にここ30年くらいにできた日本の美術館は、市民不在を批判されています。市民からの要請でできたわけではなく、行政の圧力や、政治的な思惑、巨大な公募展の圧力等でできている。日本では市民革命がなかったわけだから、当然といえば当然です。別のロジックで箱ができた。・・・「帝室博物館」は恩賜ですからね。ブルジョワ階級がつくったものであることに近代的な意味があるはずなのに、皇室の名が冠せられてしまった。
 できちゃったものは、どう運営していくかという問題にしかならないので、結局、市民を事後的に形成していく努力をするしかない。

 こういう風に書くと、非常に明快だ。
 今っぽいのは、南條さん。

・・・ホビー天国日本における「国立新美術館」は、現代の家元制度のための発表の場と見えてしまう。
このようなシステムは、社会的に見れば、けして悪いとは言い切れません。欧米では、絵を描くことはプロがやることで、一般市民は簡単に手を出さない傾向が強いわけです。
・・・もう一つ、日本における特殊事情として、「新聞社主催の展覧会」が挙げられます。・・・フランス文化庁の役人が日本に視察に来たとき、「このシステムは素晴らしい。国がやらなくても、民間主導で展覧会が成立しているじゃないか」と絶賛していたらしい。

 隣の芝生は青い、ということか。随分昔に読んだ、スウェーデンから日本に福祉の視察に来た、という話を思い出してしまった。欧米では本当に「市民は簡単に手を出さない」のだろうか? ミネアポリスではアート系フリマをやっていたけれど。
 次は、村田さん。

 第二世代になって、ホワイト・キューブ=企画展が必要になったということは、日本の美術館がそうであるように、美術館が常設に耐えうる、価値のあるコレクションを持てなくなったということだと思います。

 最後に、ゆるゆるな感じの隈さん。

 MoMAは20世紀の初めに、既にデパートとしての美術館だったんです。・・・でも、同じものを日本の地方都市につくっても、絶対に失敗すると思う。・・・MoMAは中心都市に存在するデパート、老舗中の老舗にある三越みたいなものだからこそ、成立している。・・・
・・・今のぼくの仕事は、そういう脈絡がないし、施主も滅茶苦茶。そこからは統一的な世界につながるような脈絡がない。断片的なローカリティーに漂い続けていていいんじゃないかという気になっている。・・・
 ・・・個別の様々な美術館を統合する標準的な美術館という図式や概念自身が、もはや無意味なわけです。

 隈さんのは、対談なので特に断片的だが、何か心に残り、気になる物言いである。
個人的に興味を持ったところを、脈絡もなく抜き出してしまったが、興味を持たれた方は、ぜひご一読を。