「利用偏る」は当たり前

 怒涛の月・火が終わって、あとは、寝る前に犬の目薬を入れるだけ。火曜の晩が一番嬉しい。犬は、最近、私の手を前足で引っかいたり、目薬に噛み付こうとしたりする。犬に手を取られるものだから、家の中にも、小さなさざなみが立つ。
 通勤の途上で、あれこれといろいろなことを考える。一番考えるのは、大阪府問題。
 例えば、昨日の日経夕刊(15面@関西)は、「ネット関西から」という小さな記事を載せていた。日経ネット関西の「トレンドアンケート」のダイジェストらしい。「公立文化施設の存廃」という小見出しで、文化施設の廃止や民営化に賛成する意見として、「特定の市民が使用」(40代男性)と書かれ、新聞自体も「利用が偏っているとの指摘だ。」とまとめている。これは、ネットでよく書かれる主張だと思うが、考えてみると、40代男性は、大概、公立文化施設を利用したくても、忙しくて無理、という世代ではないだろうか。
私自身も、ごく特定の施設しか使っていない。それは行きたくないとか、関心がないとかではなくて、時間も、気持ちの余裕もないからだ。仕事の日は、伝書鳩のように、職場と家を往復するだけ。
だから、「利用者が偏っている」のは、致し方ないことだと思う。勤労世代や、家族の世話で長い時間、家を留守にできない人は、文化施設を楽しむのは現実的に不可能。じゃあ、不要か?と言うと、そうは言えないのではないだろうか。私たちの世代も、いずれは高齢になる。今は忙しいから、音楽を聴きに行ったり、落語を聴きに行ったり、お芝居を見たりなどの順番は当分回ってきそうにはないけれども、子どもたちが独立したら、仕事もちょっと減らして、もう一つの豊かな人生を楽しんでもいいのではないか、などとも夢想する。
問題の根底には、日本人の仕事熱心や、家族のために尽くす心性も一因としてあるのではないかと、ハナの詰まった頭で思いついた。“人生をエンジョイする”発想が抑圧されているというか、“何のために生きているのか”あたりで、欧米のオトナと日本のオトナは違うのでは?と、文化芸術擁護派が少数になってしまう理由を考えてみた。(他にもあれこれ考えているのだが)
 夕刊のダイジェストよりは、ネット関西の記事のほうが、多様な意見が紹介されていて、興味深い。http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news003936.html