身近な考古学

 家から歩いて数分のところで、発掘が始まった。
 ここ数年、レンゲの花が見事で、鳥もたくさん来ていた、その田んぼに先日来、機械が入って、長方形の穴ができた。いよいよマンションができるらしい。
 日曜、バスに乗り合わせた近所の人と帰る道々、「これ、遺跡掘ってるんちゃう?」と言われた。「え? ここもなんか建つって聞きましたよ」と私。最近、町内の田んぼ(2〜3年前から休耕田)が、次々、賃貸マンションやテラスハウスに変わっている。その日は、長方形の穴の上に青いシートがかかって、白い土嚢で縁が押さえられていた。
 月曜、急いで帰宅する際、大きな長方形の穴の部分だけでなく、そこからはみ出した場所にも、丸い穴が掘られて、周囲が白く縁取られていた。発掘現場だ。測量もしている。
 夕方の犬の散歩時に、犬仲間と井戸端会議。「今日、壺が出たんやって! 見に来て、見に来て!って言われたらしいよ」。「何であそこだけ、あんなに深く掘るんかな?」「高い建物が建つから基礎も深いんちゃう?」「裏のマンション作るときも、えらい長いこと、掘ってはったで」「あの田んぼ、1mくらい下がってるから、今の地面から何センチとか、決まってるんじゃない?」・・・・で、私たちの一致した意見としては、田んぼがなくなって、緑がなくなって、さみしいなあ、風通しが悪くなって、暑いわ、などなど。「何か、すごいもの出てきて、工事とまらへんかなあ」「無理無理・・・」
 今朝、出勤時、ちょうど、ビニールシートを剥がしているところに遭遇した。丸い穴のところには、板が置いてあって、その板も外しているところだった。へ〜、夜の間は、あんな板で蓋してるんだ! で、丸い穴の中に、何かが詰まっている。石のようにも見えるし、もしかして、あれが土器? しばし興味津々で覗き込むがよく分からず、作業している人に声を掛けようかとも思ったが、あ〜授業準備が・・・と思って、その場を立ち去った。
 電車に乗っても、気になって仕方がなかった。発掘しているのは、市の技師さん? それとも民間発掘会社? まずそこに興味がいってしまのが何ともだ。うちの近辺は、安満遺跡の端っこに当たるはず。弥生時代の遺跡かな? で、このワクワク感って、一体何だろう?と。
 しばらくして、それは(知的)好奇心というよりは、ある種の「所有欲」のようなものではないのか、と思い至った。つまり、ウチの町内の、っていう意識だ。
 本家安満遺跡のすぐそばを、毎日散歩しているのだけど、昨日も今日も、たんぼを歩くケリを見た。今年もまた営巣しているのかな? ずっと、ここの田んぼが潰れませんように、と願う気持ちとどこか似ていて、ケリは誰のものでもないし、遺物は、国民共有の財産だとしても、なんか、ウチの近所なんよ!という。
 先日書いた「論文(?)」の中で、埋文財団が、発掘事業の公益認定を受ける際に、認定法別表(第二条関係)の「学術及び科学技術の振興」(1号)、「文化及び芸術の振興」(2号)、「地域社会の健全な発展」(19号)等の適用が考えられる、という話を引用させていただいた。で、19号については、内心、う〜ん?と思っていた。“オラが町の〜!”っていうのが、地域のアイデンティティ云々という話になるのだろうか? しかし、この町に暮らして、たかだか10年である。「健全な」に至っては、さらに分からないのだった。どういうのが、一体「不健全」なのだろうか?
 
 これまでに、博物館や埋文センターの展示や収蔵庫などをずいぶん見せていただいた。しかし、普段、自分が歩いている道のすぐそばに、というか、恐らく、歩いている道の真下にも、古代の人々が生活していた、というのは、何か全然、別の感動だ。それは、珍しいとか、学問的に貴重とかいう必要は全くなくて、古代にも、普通のごく平凡なオッサンやオバサンたちが、(それこそ、もしかしたら、犬も飼っていたかも!?)この同じ場所で暮らしていて、その痕跡が今に至るまで残っていた、という感動だ。

 引用させていただいた文章の中に、「不特定多数の人に利益を与えられるかについては、埋蔵文化財の狭さを心配する人がいる」という部分があった。「オラが町」から出土した遺物だって、市の文化財センターの黄色や灰色のコンテナの中に収納されてしまえば、何だか色あせてしまうような気がする。

 そんなことをずっと考え続けたせいで、駅では転ぶわ、授業は失敗するわ、教室に買ったばかりの電子辞書を忘れて帰るは、散々な一日だった。幸い、電子辞書は、手元に戻った。