国立台湾博物館(10月31日)

 「博物館」バス停で下車すると、緑豊かな公園が広がっている。ガジュマルかアコウかの気根が垂れ下がっている。そして、石造りの鳥居(たぶん)。正面には、ヨーロッパ風の博物館。



 入口で、額に「熱感知器」を当てられる。インフルチェックだ。そして1階の右手には、「采田福地 台博館蔵平埔傳奇」の看板。

「采田福地」の意味が分からず、最後まで戸惑う。順益台湾原住民博物館で、「平埔族」の説明は見ていたのだが、その説明と、この国立台湾博物館での解釈が一致しているのかは分からなかった。
 順益台湾原住民博物館のビデオでは、「平埔族」は、台湾の西側の平地に住んでいた人々で、漢族と同化した人々という説明だったと記憶している。順益台湾原住民博物館で、日本語の書いてある本を探したところ、『百年の時を越えて 百年来的凝視』(2009)という、みんぱくからの里帰り展示の際の図録を見つけて買った。この本の中では、次のように説明されている。

 台湾のオーストロネシア語系原住民族のうち、主として平地に居住していた10あまりのエスニック・グループは、平埔族と総称されてきた。これらのグループは言語分類にもとづいて、バサイ、ケタガラン、クーロン、タオカス、パゼッヘ、ポパラ、バブザ、ホアニァ、シラヤ、クヴァラン、サオなどの民族名称を与えられているが、歴史的に漢族からの影響を強く受けて急速な同化の道をたどり、現在その大部分は民族集団としては消えてしまった。(清水純「平埔族の物質文化」)

 なお、北村嘉恵さんの本には、次のように書かれている。

 台湾総督府は当初、「帰服」の度合いによって「熟番」(=王朝の支配に服す異民族)、「帰化生番」「化番」(=王朝の支配に服すが漢化の及んでいない異民族)、「生番」(=王朝の支配の及ばない異民族)と区別した清朝政府の呼称をほぼ踏襲し、先住民族の間に「熟番」「化番」「生番」という区別をもうけた。1900年前後以降は「化番」「生番」に対応する呼称として「蕃人」「蕃族」を用いる一方、「熟番」に対しては「平埔族」を通用するようになる。(北村嘉恵『日本植民地下の台湾先住民教育史』2008年)

 乾隆年代台湾土番風俗図(19世紀)

 片瀬弘 巡台御史林天木台湾巡視図(大正13年(1924))


 伊能嘉矩 旧淡水県平埔蕃十九社分布地図 明治29年(1896)

 この他にも絵図や文書類が多数展示されていたが、理解が及ばなかった。

 1階の左手には、考古学上の遺物や木彫りの板絵(木雕壁板)、生活用品等が展示されていた。一番奥に、岸裡社頭目潘敦仔像(1770)。

 内部の空間は、ドームの天井にステンドグラスがはまり美しい。ギリシア風の柱には柱頭もあっていかにもなのだが、いかんせん、大理石ではなく、白い塗料を塗っている様子。


 2階の右手は、原住民の民族資料展示。お祭り等の映像資料もあったと記憶している。2階の左手は、自然史の展示。いささか古めかしいジオラマ

展示室内には、「学生公共服務」と書かれたユニフォームを着た若い子たち。公共服務とはボランティアを意味するのだろうか? 
 展示室の外周には、ダーウィン展のパネル展示。カクタスフィンチの絵がほほえましい。

 この交配図も。馬×驢=騾

 3階は、台湾生態芸術特展だった。そしてそのかなり奥まったところに突然現れた「児玉・後藤銅像陳列室」。以下、写真による引用。銅像は、引き倒され壊されていても不思議ではないのだが、台湾の人々は、様々な歴史上の資料を保存することを選んだようだ。そのことに気付いたのは、このあと訪れた二二八紀念館のビデオを見ていた時である。石造の鳥居も、壊すのではなく、この公園内に移築したように説明されていた。







 地下には、自然史系の教育普及用の展示。顕微鏡などが置いてあった。
 館の外に出て裏に回った。