228紀念館(10月31日)

 国立台湾博物館のある228和平公園を南に向かうと、中国風の東屋が作られている。


228紀念館は、台湾国内の事件を扱っているらしく、少し迷ったが、時間の関係で今回はパスして総統府に行こうと思った。が、公園の柵にはばまれ、また228紀念館の前に出たので、これは、何かご縁があるのだろうと思い、入館した。
 228紀念館は、以下のような展示構成になっている。

1. ビデオルーム(228紀念館の成り立ち)
2. 植民地下における近代化
3. 第二次世界大戦下の台湾
4. 新しい時代を迎えて
5. 嵐の前夜
6. 専売制度とヤミ煙草の取締による衝突
7. 事件のあらまし
8. 台湾ラジオ放送局
9. 大虐殺
10. 被害者への追悼
11. 厳しい取り締まり、恐怖と反抗
12. 228事件被害者家族の証言
13. 平和のための活動
14. 228事件の証拠物件
15. 228事件に関する研究
16. 228事件への思い
17. 228事件を記念して

最初のビデオルームでは、228事件のあらましと、この館ができたいきさつを日本語で聞くことができる(字幕だったかもしれないが、記憶がすでにさだかではない)。228和平公園の沿革、変遷の説明もあった。以下、持ち帰ったパンフレットから一部抜粋する。

台湾現代史に最も大きな痕跡を残したともいえる228事件の背景には、第二次世界大戦後に台湾が旧政府に接収されたことで、中国大陸と台湾の長年における隔絶がもたらした文化的軋轢が表面化したことが挙げられよう。この悲劇の経緯は1、官民の対立、2、軍隊による鎮圧、3、旧政府の一般人の摘発と弾圧の3段階に分けることができる。
228事件の導火線となったのはヤミタバコの取締りによる市民殺傷事件である。旧政府はすでに抑えきれなくなっていた民間の不満の深刻さを理解できず、曖昧なままで政府改革を引き延ばし支援部隊による武力的解決を図った。1947年3月8日、中国大陸からの支援部隊が台湾に到着すると、北から南まで都市部でも田舎でもいたるところで、軍隊による一般人の鎮圧が始まった。これが次第にエスカレートしていき、反旧政府勢力の摘発と弾圧へと発展していくのである。

展示室入口のパネル、以下、展示の一部を紹介させていただく。



第二次大戦下の台湾。



新しい時代を迎えて。

嵐の前夜。パネルの一部を文字に起こすと以下の通り。

戦争が終結した後、台湾人は皆喜びに満ちて、心の拠り所とした「祖国」を迎え、素晴らしい時代の到来を期待した。しかし日本統治五十年という歴史的発展の差異は、台湾と中国を違った社会に変えてしまっていた。考え方や生活水準の隔差は相互に文化的摩擦や衝突をもたらし、二二八事件を爆発させた直接の原因であった。

「両種人―日記」という風刺画。

日本統治下で施行されていた専売事業は戦後財源確保のために温存され、煙草、酒、マッチ、樟脳、度量衡に加え、食塩、石炭、甘藷、糖等は専ら独占機構によって販売が統括され、自由売買が一切禁止とされた。こうした厳しい「経済統制」の下、商取引は停滞し、小売業者は活路を失っていた。
こうした経済的要素に加え、軍警の風紀紊乱が見られ、その頃、銃撃事件もよく新聞沙汰となった。接収委員の汚職も深刻で、大型の闇取引が横行した。しかし一般庶民や小売り商いに対する取り締まりは厳しい一方、逆に没収された闇タバコなどが再び、別のルートで市場に流出していた。台湾人民の怒りは頂点に達していた。
1947年2月27日、専売局の闇タバコ取締りに端を発して、死傷者各1人を出す流血事件が発生した。翌日、事件に抗議する民衆のデモに対して、長官公舎側は機関銃を発した。




228事件について何も知らなかったというのが、正直な感想である。隣国でありながら、同時代に生きながら、何も知らなかった。夏に見たベルリンの壁記念館同様のインパクトがあった。むろん、ある館の展示内容・主張はさまざまな解釈の仕方があるのだが。ところで、今日(11月19日)、中国文学の先生に、台北故宮博物院と北京の故宮博物院が連携して特展をやっていたという話をしたら、台湾の政権変わったから、その影響ではないか、という話になった。国民党がまた政権についたとのこと。
この記念館の建物は、もともとは日本がラジオ放送局として建てた建物だという。改めて表から見ると、これがコロニアル様式というのだろうかと思う。館のビデオでは、もう少し違う名前で説明されていた。

棟続きで、おしゃれなカフェが店開きしている。