野外博物館の楽しみ

 今日は、日本民家集落博物館開館50周年記念講演会と座談会。秋晴れの気持ちいい1日。館内は、ススキや柿の実、コスモスに彩られ、民家のたたずまいが美しい。会場は、小豆島の農村歌舞伎舞台というのがまたいい。おおきなテーマは、「野外博物館の今と未来―地域との連携をめざして―」。
 基調講演は、杉本尚次先生の「世界と日本の野外博物館における地域活動の事例」。杉本先生には初めてお目にかかったが、杉本節と言われる語りがすばらしい。縦横無尽にお話が広がる。おそらく、日本人で、一番たくさん、世界中の野外博物館を見てこられた方なのではないだろうか。75歳になられるということだが、まだ現役の大学教授だ。あとで伺ったところ、杉本節は、予備校仕込みだそうだ。関学時代には、1500人くらいの授業を担当され、「うしろが霞んでますなあー」とか言われたとか。生粋の大阪人だ。
 さて、お話はスカンセンから始まり、北欧で野外博物館が広がった理由は、キリスト教の進出が遅れ、土着の民族資料が残っていたこと、ロマンチック運動のような民族意識の高揚があり、民族文化を残そうとする動きがあったこと、だという。戦間期には野外博物館はヨーロッパ全土に広がるとともに、一方、アメリカでもアイオワ州ノルウェーアメリカン・ミュージアムが開館する。アメリカへは、野外博物館は北欧系移民を通じて伝播したのだそうだ。1930年代に準備を始め、40年代に野外博物館ができてくる。1960−70年代は、生活史復元運動の流れにのって、リビングヒストリーミュージアムが誕生してゆく。
 ロックフェラーが支援したウィリアムズバーグは、白人の歴史ばかりだと批判され、見直しをおこなったという。アメリカの野外博物館は、ベトナム反戦運動公民権運動の影響を受け、展示の質が向上したが、地域差はあるそうだ。
 こうしたアメリカやカナダでの野外博物館運動が、アジア、オセアニア、アフリカに広がった。アジアの野外博物館は、民族意識を高揚させ、国民国家を見せ、また観光資源となっている。このように、北欧で生まれた野外博物館は、アメリカを経由してアジアに伝播したという。
 日本では、渋沢敬三が1920−30年代に今和次郎とともに、紀元2600年記念の民族学博物館に野外展観(民家園)をつくる計画を立てた。今和次郎の手になると思われるドローイングを見ると、民家に附属建物も入り、配置や広がりをもった計画図であった。この計画がなぜぽしゃったかというと、狭い皇国史観を持つ歴史学者との対立があり、渋沢はお金を出すのを止めてしまったのだという。
 という大意で、これは、私が杉本先生のお話をメモして再現したものなので、聞き間違い、書き間違いがあれば、お許しいただきたい。このようなスケールの大きなお話を伺い、とても楽しかった。そう、アメリカの野外博物館を科研費等をとって、民博のスタッフと3人で車で回ったこと、ついでに野球の本を2冊も出してしまったことなど、生き生きとした一時代前の調査旅行をうらやましく思う。
 さて、第二部は、座談会「学ぶ・楽しむ、地域に根ざした野外博物館をめざして」。中村副館長の司会で、民家集落博物館のボランティアスタッフ5名のみなさんのお話。これがまた、裏千家のお茶の先生の和服あり、落語で鍛えた語りあり、もと植木屋さんの畑談義、アート&クラフトまつりで仲間を100人も呼んでしまう小学校の先生、そして何と、小笠原流礼儀作法師範の囲炉裏番、とすごい方たちだったのだ。
 この礼儀作法の先生は、定年まで大手メーカーにお勤めで、職場にコンピューターが導入された当時の第一期生とのことで、ブロガーでもある。http://blog.goo.ne.jp/ku-ma_1942/e/f306a0c2b6109a738c9cbc8efbfa9f2c
 参った、参った、という感じで、農村歌舞伎舞台前の観客席からは、この経営難の時代に他の野外博物館の経営状況は、などの質問も。杉本先生は、黒字運営が出来ているのは、高山飛騨民俗村だけでは、と答えておられた。リピーターをどう増やすか、外国人のお客さんへの対応や、旅行社とのタイアップはできないか、など、ボランティアの方々から積極的なご意見が続いた。
 明るい日差しと、茅葺き民家の屋根に芽生える草の緑、夕方になり吹き始めるやや肌寒い風、みなさんが、この静かなたたずまいに魅かれて通っておられることがしみじみと伝わってくる楽しいひと時だった。
 今晩は夜8時までの開館で、秋の虫の声を聴く会があるという。館長手作りのライトが、夕方の土の道を照らし始める。