『朝井閑右衛門』

 ふっと気が抜けて、夕方届いたばかりの門倉芳枝『朝井閑右衛門 思い出すことなど』(求龍堂、2002年)を読む。横須賀の論文を書いていて、美術館をつくるきっかけになった寄贈作品の主である朝井さんの年譜を読んだ。

1978年 77歳
 この9月、自宅浴室で転倒し右足を挫傷する。脚はその後回復したものの再び転倒して傷め、歩行に支障をきたすようになる。この頃、田浦時代から直弟子として朝井家に出入りし新樹会に出品していた門倉芳枝が同家に住むようになる。
 (朝井閑右衛門『朝井閑右衛門画集』朝井閑右衛門の会、2000年)

 この年譜を見て、門倉さんの本を読んでみようかと思ったのである。
 門倉さんの本には、酒井忠康さんの序がついていて、その短い文章の後段には、門倉さんの本のエッセンスが、抑えながら凝縮して描き出されている。酒井さんとは、なんと文章のうまい方だろうか。
 門倉さんの本の前半は退屈だが、後半の閑右衛門の闘病生活の描写は、やはりその場に居合わせた人のみが書けるものだろう。笛で門倉さんを呼び、這いずっての生活の中で、絵を書き続ける執念。門倉さんに対しては、「きみは意気地がない。出来るか出来ないかやってみろ。賭けだぞ」と。閑右衛門は死の5日前まで薔薇の絵を描き続けたようだ。
 門倉さんは、絵ではなく、閑右衛門の手足となることを選んだ。門倉さんの「二月になってから、夜中に苦しくなると言われたので、私は夜、玉露や抹茶の濃いのを沢山飲んで、度々用に下へ降りるようにしていた」という記述が痛々しい。
 門倉さんのような女性が一人でも少なくなることを、私は心の底から願う。
 それはさておき、横須賀市議会で問題になったことの一つは、作品寄贈に際しての遺族の処遇(専門委員への登用)である。
http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/council/giji/yosida060915.pdf吉田雄人議員による、横須賀市議会2006年9月定例会発言通告書)
 こういう話は、美術の世界では、よくあることなのだろうか。