『美を想う女性群像―わたしの美術館―』

 上記の本を読んだ。朝から読み始めて一気に読み終わった。編者のお名前は明らかにされていないが、ぜひ、この企画を考えた(株)大日本絵画の編集者にお目にかかりたいものである。著者は14名の女性学芸員さんたちの連名。タイトルとともに、著者名と、この本で触れられている美術館名を記すと以下のとおり。
・ すぎ去った研究所での歳月 關千代(東京国立文化財研究所)
・ 思い出すままに 井上房子(秋田市立千秋美術館)
・ 佐野美術館に勤めて 渡辺妙子(佐野美術館)
・ わたしの美術館―長い階段を登って 加藤類子(京都国立近代美術館
・ わたしの美術館 京都市美術館 塩川京子(京都市美術館
・ わたしの美術館 千葉県立美術館 小野禮子(千葉県立美術館)
・ 今日よりも明日へ―私を育てた美術館員の道 村田靖子(大和文華館)
・ わたしの美術館 山種美術館 草薙奈津子(山種美術館
・ わたしの美術館 足立美術館 大久保説子(足立美術館
・ 美術館・美術史・学芸員―わたしの場合― 玉蟲敏子静嘉堂文庫)
・ 奮闘と喜び―美術館の学芸員として― 小勝禮子(栃木県立美術館
東京国立博物館の日々 千野香織東京国立博物館
・ 研究機関の展示スペース―東京国立文化財研究所― 山梨絵美子(東京国立文化財研究所)
・ 公立美術館におけるボランティア活動(静岡県立美術館) 玉蟲玲子(静岡県立美術館)

1つだけ、あれ?と思う文章があったが、あとはどれも、読み応え十分だった。第一世代とも言える年長の方々のお仕事ぶりは、当時の苦労がしのばれる。1938年生まれの加藤類子さんが、研究員に昇格するまでに20年かかった話などは強烈だ。

 多くの方のご好意と支援のお蔭で、私は今は笑ってこの回想を書いてはおりますが、今でも、些細な理由から、二、三年で事も無げに研究員や学芸員の身分を捨てて、美術館をやめてしまう若い男性の学芸員を見るたびに、そのしたり顔を、思い切りぶん殴ってやりたいと思うほどの怒りを感じてしまいます。(p.90)

 佐野美術館の渡辺さんが勤務して3年目。佐野コレクション以外に、他館から借りて展示をつくったそのオープンの当日の出来事。

 いよいよ開館の日、佐野さんは自らのコレクションの刀剣だけをゆっくり観られ、他から借用したものは決して目を留めようとせず、横を向いて通り過ぎた。これには私も本当に参った。コレクターの意識の綾の複雑さを知った。財団法人の学芸員はどうあるべきか、若かった私は悩みに悩んだ。(pp.66−67)

 足立美術館の大久保説子さん。彼女だけは、創設者のお孫さんだ。

 大阪が足立全康の事業の拠点であったことから、関連会社の一室に足立美術館大阪事務所が誕生したのは開館して間もなくであった。身内から社員まで一丸となり、パンフレットを片手に旅行会社を一軒一軒セールスに回ったのである。・・・美術館が何故宣伝に歩くのか――。この質問には、正直言ってこちらの方が、返答に困った。・・・歩きながら、「美術館が宣伝に歩くことはおかしいのだろうか、恥ずかしいことなのだろうか、しかし、じっと待っていては成り立たないのだから」と自問自答していた。そんな或る日、日本旅行の関西支社を訪ねた。運よく支社長にお目に掛かれ、熱心に耳を傾けて下さった。お礼を申し上げ席を立った時、「大原美術館の藤田館長も熱心に回られていたよ。あの大原でさえ、入館者がゼロという日もあったのだから、頑張りなさい」と肩を強く叩かれた。(pp.209−210)

 そして、静岡県立美術館の玉蟲玲子さんの実践記録は、いまなお解決されていない、日本の美術館(博物館)ボランティアの問題をリアルに描き出している。参加者間の微妙な遠慮や競争心、参加者の多くに見られる受身的な発想や姿勢、ボランティア導入3年目に求めたレポート提出に対する、ボランティア側からの「予想していたとおりの激しい、かつ感情的なまでの反発」。玉蟲玲子さんは、アメリカにボランティア・友の会の調査に行き、日本の公立美術館の状況に対して先方が示した感想と疑問を、次のようにまとめている。

1.何故展覧会を担当する学芸員(研究職員)が、ボランティアの担当(教育職員)になるのか。
2.何故ボランティア自身による活動の運営をはからないのか。
3.ボランティアへの教育や指導は、展覧会の準備作業の片手間では、できるものではない。(p.338)

 この本が出版されたのは、1990年。先人たちの努力のお陰で、女性の進出は進んだ。ただし、今日の博物館法改正で話題に上る学芸員問題など、この16年ほどの間に何も変わっていないどころか、さらに事態が悪化しているのは明らかだ。反論したい部分も含め、第1級の文献資料に出会えたことが、この上もなくうれしい。発行所は(株)大日本絵画