戦争記念館

takibata2007-03-24

 アンドン発7:30の列車に乗り、11:45には清涼里駅に着いた。アンドンから帰って来ると、土曜の昼間の清涼里駅は、とても都会に見える。目が変われば、見え方も違うものだ。
 最後の半日、どこへ行こうかと迷ったが、戦争記念館に行くことにした。ホテルに荷物を置いて、地下鉄4号線428番の三角地駅下車すぐ。
 入り口の門のところに、警官か軍人らしき人2名が銃を持って立っているし、とても緊張して中に入った。豪華な建物だし、大勢の人が来ているし、背広などフォーマルな姿の人が多く(日本人はいないし)、広場には、戦闘機や戦車が並んでいるし、こわごわとチケットを買って中に入った。
 土曜の午後なのに、子どもたちの団体がたくさん来ている。1階の初めのほうは、何と、原始時代の石器や金属器の展示から始まっており、ここで、先生たちが熱心に、子どもたちに説明をしている。どうやら、韓国の子どもたちは、ここで歴史の勉強をしているらしい。
 個人で来たお母さんと、小学校の低学年くらいの子もいて、お母さんは、プリントアウトした資料を片手に、子どもに展示の内容を読み聞かせている(この母子は飽きることなく2階までずっと解説し、されながら展示を熱心に見て回っていた)。隣国では、こういう教育が日々行われていることを、初めて知った。
 展示は、1階部分は、第二次世界大戦終了までの対外抗争史。元や明、倭寇や、豊臣軍との戦いなど。資料の不足を補う意味でか、大きな油彩画で、各戦闘のシーンがビジュアルに再現されているのが目を引く。その油絵の描き方、飾り方は、ベルサイユ宮殿の絵画群とそっくりだと思った。おそらく、日本の戦争画というのも、こういう描き方だったのだろう。細部(や巧拙)にこだわらなければ、ベルサイユやルーブル美術館に飾られている殺戮シーンとそっくりなのだ。
 ファンタビューがあるのにも驚いた。亀甲船の大型復元模型あり、映像あり、豊臣軍を迎え撃つシーンの大型ジオラマ(動いたり、音が出たりする)、子どもが上れるお城ふうのものあり、と体験型展示も用意されている。こちらは、肩身を狭くしながら小さくなって見て回っているのだが、意外なほど、植民地時代の展示は少なく、その部分は日本語訳もなかった。倭寇壬辰倭乱文禄・慶長の役)の方が大きく扱われていたという印象だ。
 1階の中央吹き抜けが亀甲船の展示なのだが、その空間を取り巻くように、大きな戦争画の油彩が展示されている。展示室内の戦争画には、作者名もないのだが、この回廊部分の絵には、作者名がパネルに記載されているようだ。ただし、制作年は書かれていない。これは、美術作品なのか? 韓国の作家は、こういう絵を描いてしまうのねと思い、また、美術ってもともとは、こういうことのためにあったのね、とも思う。
 2階は全部、韓国戦争(朝鮮戦争)の展示だ。ここからは、当時の映像資料が残っているためか、かなりの数の映像展示がある。韓・中・英・日、4ヶ国語が選べるボタンがあり、私一人なら日本語ボタンを押す勇気はなかったが、2人の日本人男性がためらいもなく、各コーナーの日本語ボタンを押していくので、そのあとにつかず離れずで、2階の映像の主だったものを全部見聞きした。
 3階は、韓国戦争当時の避難民の様子を再現した大ジオラマ、(そういえば、この館も、等身大人形展示をふんだんに使うことで、分かりやすさと臨場感を生み出している。それに展示ケースも、アメリカ自然史博物館の生態展示と全く同じ!)、ベトナム戦争を中心とする国連軍参戦と、PKO活動、それに戦艦や戦闘機の内部に入れる展示や兵器の数々など。最後に、戦場体験室。どんなに怖いものかとドキドキ待っていたが、砲弾の音や光など。解説が聞き取れないので、怖さを感じなかったのかもしれない。韓国の男の子たちが、体験室の入場を待って大勢走り回っていた。
 閉館時間が近づくと、3階にはほとんど人がいなくなり、若い日本人男性3人が、熱心に写真を撮っていた。
 屋外にも、大型武器の数々が展示されていて、夕方になると、こちらもなぜだか、すっかりリラックスしてしまったのだった。リラックスしていいのかどうかは分からないが。
 写真は、戦争記念館のジオラマ展示。韓国戦争(朝鮮戦争)当時の避難民の様子を再現したジオラマ(2007年3月24日撮影)。