芦屋シンポ(8)

 昨日は、うっかり、橋爪さんの発言があそこで終わっていると勘違いしてしまったが、まだお話は続いていた。その続きを。なお、橋爪さんのお話はたいへん興味深いが、私があまり詳しい知識を持たず、細部を確認する時間もないため、聞き間違いがあればお許しいただきたい。

橋爪(続き) 明尾さん(のお話の中で)収蔵作品の問題(に触れられていたが)、美術館的に言うと深刻な問題だ。保険かけるか、(管理上は)どういう資格でやっているのか。


 昨年の大阪画壇のシンポジウムに引っ張り出されたが、美術館と博物館の仕事、展覧会の仕事(は)、財産、資源を蓄積していったところに成立する。(その蓄積が)切れかかっているところだろうな(と思う)。
 大阪画壇の展覧会では、図録を作れなかった。ものすごい量の資料(図録作っていたら・・・)、展覧会の中で蓄積(したものは)よそへ発信していくことが重要で、(美術博物館に)携わってきた人たちは、芦屋市民にとって財産だ。(館員が)実質、半分以下になってしまったが、学芸員は専門分野を持っている。芦屋市は損をしている。人的な損失があるだろうな(と思う)。


 美術館の展示は、(今日の2階の展示でも)、作品の数が多い。和歌山県立近代美術館も、(常設展に)300点出し、こんなすごい展覧会、日本の美術館ではなかったはずだが、図録を作ってなく、(見に行ったが)客は3人しかいなかった。もったいない。


 疑問に感じること。大阪市の場合、天王寺の美術館は大正9年に、(美術館建設を)大阪市議会で決め、13年開館の予定だった。(実際には、昭和11年までかかったが)、なぜ、議会で建設を決めたかと言うと、都市計画の一環として、大阪市のトータルな戦略の中で作られた。大阪市は「大大阪」として、日本最大の都市計画(を立て)、御堂筋を拡げ、地下鉄を通す・・・。大阪市は美術館行政をいろいろして、大正12年に(計画)を作った。なぜ、関一は、近代的な都市は経済だけでなく、文化的な施設が必要と考えたか。公立美術館は、大阪市でできるその前に、東京、京都ででき、大阪は昭和11年まで遅れたが、日本で最初、都市プランニングの中で、大阪の美術館があっただろう。


 芦屋市としては、どういう全体のプランニングがあって、根本的な何か、あるんですかね。全体が進まないといけないのでは。学芸の立場としては、何をしたらいいのか。(芦屋市立美術博物館の運営基本方針は、平成14年に変更になったが)、実現するのは大変なこと。運営のやり方が変わったのかどうか。(芦屋市は)やる気があるのかどうか。

 関一の都市計画と美術館の関係は、詳しく知りたいと思った。都市計画と美術館の関係は、別の機会に書いてみたいと思う。
また、和歌山県立近代美術館の話と、芦屋でも、コレクションをたくさん展示するようにしているという話に不安を覚えた。今という短期的な時間・時代に美術館が生き延びなければならないために、私たちの死後にも伝承されていくべきコレクションが、私たちの時代に寿命を縮めてしまわないかという危惧である。むろん、それは、ミュージアム関係者であれば、誰でも心配していることであろう。