「今、問われる 文化施設の使命とは」(4)

 小林真理先生のお話の続きを。

 幅広く文化施設(と言ったが)、どういう施設なのか。どんな公共サービスを提供する施設なのか。何を目指して(は)、設置条例に書いてあるが(大概が)、抽象的に、地域の文化振興のために、といったこと(しか書いていない)。文化が振興された状態とは、どういう状況なのか。設置者に聞くけど、明確に持っているところは、どこもない。明確に答えられる人は、誰もいない。どんなビジョンを持って、何を提供したいのか?
 本来はこういうことがあって政策ができ、予算(がつくはずのものだ)。例えば、「癒し」(になる、といったことが言われるが、)文化はぜいたく品ととられ、切る対象になる。
 歴史的に見て、文化に公的資金を導入する動機は、世界の歴史を見ると、ハプスブルク家が、威信・(権威の)象徴として、劇場(をつくり)アーティストを(庇護した)。(あるいは)地域の固有の文化(を守る)―アイデンティティ形成のために必要(ということで)、公的資金が入った。
 国民をおりこうさんにしてあげる、国民の教化(の手段として)劇場や博物館(が形成された。)ルイ14世が劇場を造ったとき、劇場は、(地方からパリに出てきた人たちに)「正しい」標準語を学んでもらう場所だった。
日本が目指した美術館・博物館は、これが「正しい」アートなんだ、すばらしいものでしょう、と国民教化の目的の中で(造られてきたものだ)。
 市場システムの是正(が必要で、市場に)放り出されたら、その活動ができない。政府が補助しないといけない(というのが)アメリカの文化経済学の考え方だ。福祉国家と文化(の関係を考えると)、誰もが文化へのアクセシビリティー(が保障されなければならない。)文化は福祉なんだ。
 コンテンツ産業(を考えると)、政府は文化に投資しており、今ほど政府が文化に投資している(時代はない)。イギリスでは、文化は経済発展に結びつくんだというのは、19世紀くらいから言われてきたことだ。都市政策や社会問題は、今までの方法では解決できない(ということで)、文化的な手法が導入されてきた。(これが)公的資金導入の動機になっている。
 私自身は、表現の可能性、生き方・考え方の選択可能性の提示が、公的資金導入の根拠だと考えている。【以下、続く】

 
 以下は、私の独り言。文化経済学的なダイジェストを伺えたことは、たいへん勉強になった。劇場・ホール系の方から見ると、ハプスブルク家が出てくるのね、という感想。ちょうど、読んだばかりだった、ヴンダーカンマー本のことを思い出した。ルイ14世の劇場の話も面白い。
 論旨展開としてよく分からなかったのは、国民教化の手段として誕生した文化施設が、その後、その目的をどう変えたのか、変えきれていないとすれば、そんなおせっかいな施設はもう要らないよ、という話にならないのだろうかという点。日本のコンテンツ産業(私は、アニメとかゲームかな?と思ってお話を伺っていたのだが)は、「国民教化」の枠組みから比較的自由になれていると思うので、その部分で、「正当なる文化」は負けてしまっているのでは、とか考えもする。
 あと、福祉国家の部分。日本では、もはや福祉国家的な枠組みが維持できなくなってきたから、その対応策として指定管理者制度などが導入されたのではないかと思うのだが、いかがだろうか。

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 ところで、今日、明日と入試。どうも、毎年、第三木・金が、公募制入試の日と決まっているらしい。日博協の博物館大会も、同じく第三木・金に設定されているのではないだろうか。おととしまでは、無理を言って監督を代わってもらっていたが、昨年からは、日博協大会を諦めざるをえなくなった。今年は、法改正問題があるので、事務職員さんに代わりに行ってもらっている。今後もずっと行けそうにないのは、とても残念。