レオポルド・ミュージアム

 8月21日(金)は、ミュージアム・クォーター・ウィーン(MQ)内にある、レオポルド・ミュージアムにもいった。MQは、美術史博物館(KHM)と自然史博物館が並ぶ広大な敷地の、道を挟んだ向かい側にあり、もともと宮廷厩舎だったところを増改築したという。2001年オープンで、詳しい日本語解説はこちらをどうぞ。→http://programm.mqw.at/jp/biotop.htm#top

 広い敷地内には、広場が点在し、カフェやレストラン、ショップが多数あるほか、無料で座ったり遊んだりできる黄色い大きなコンクリの塊が点在し、多くの人が、そこここでくつろいでいる。地下鉄の駅に近く、広場は夜遅くまで多くの人であふれ、ミュージアムの集積地とは思えないような、子どもが遊び、犬が散歩し、若い人が大勢いる、賑わいの場所になっている。



 レオポルド・ミュージアムの最大のウリは、エゴン・シーレのコレクションで、油彩は上の階に、地下には、シーレのスケッチブックに書かれた水彩画(だと思う、たぶん)の複製がたくさん展示してあった。実物は紙や色の劣化を防ぐために、展示していないとの説明があった。こうしてみると、過激な作品は、むしろチェスキー・クルムロフのエゴン・シーレ文化センターのほうに多かったことに気づく。
 ほかに、クリムトのdeath and lifeや、ココシュカの作品など。
 ユーゲントシュティールの特別展もやっていて、オットー・ワーグナーらの建築作品をビデオで紹介するコーナーもあった。
 歴史的な映像もいくつかあり、印象的だったのは、1918年(と記憶しているのだが、1916年の間違いかもしれない)の葬儀の映像。ハプスブルク家の葬儀だと思うのだが、参列者のメタボぶりが目についた。
 それから、ウィーン1920年代、1930年代の2つの映像。特に後者は、ナチの行軍を旗を振って迎えるウィーンの人々の姿が印象的だった。

 ところで、帰りの列車の中で、レオポルド・ミュージアムの英語版小冊子(Leopold Museum Vienna,Prestel Museum Guide,2008)を読んでいると、驚くべきことが書いてあった。見出しが、「プラーベート・コレクションからミュージアムへ」となっている。内容をかいつまんで紹介すると、以下のようなものだ(正確には、原文にお当たり下さい)。

 ルドルフ・レオポルド(1925年、ウィーン生まれ)は、ウィーン大学で医学と美学を学んだ。彼は、22歳の学生時代に、初めて美術史博物館に足を運び、深い影響を受けた。レンブラントフェルメールブリューゲル、ベラスケスらの作品によって、美術に目を開かれた。ルドルフ・レオポルドは、美術作品を収集することに決めた。最初、彼は19世紀の作品を集中的に集めた。1950年の夏、彼は、彼にとって終わりのない魅力を持つ素描、水彩、油彩画の作家、エゴン・シーレを発見した。彼は、シーレの作品が、オールドマスターズと同等のもの、さらに、その主題は現在に相応しいものであることを悟った。
 シーレは、戦後もローカルな才能としかみなされていなかったが、1950年代半ばから、世界各地で開催された展覧会が、シーレをヨーロッパ第一級の作家に押し上げた。ルドルフ・レオポルドと妻のエリザベスは、シーレの死後も、彼の同時代の作家や後継作家の作品を集め続けた。彼らは、これらのコレクションを維持するために、1994年に、オーストリア共和国オーストリア国立銀行に対して、民間財団を設立することで合意した。そのときまでに、5,200点の作品が、登録されていた。財団設立パーティーで、夫妻は、コレクションを収蔵する美術館を建設することとし、ルドルフ・レオポルドを館長(Director)とした。レオポルド・ミュージアムは、ミュージアム・クォーター・ウィーンの重要な位置を割り振られた。

 財団設立と、国・銀行との合意、美術館建設の話は、これ以上は書かれてないようで、詳しくは、よく分からないのだが、学生時代からコレクションを始めたというのだから、驚きだ。よほど、お金持ちの家庭だったのだろうか。レオポルド夫妻はどちらも学位を持ち、ルドルフが書いた、シーレのモノグラフ(1972年出版)は、主題研究のスタンダードになっているそうだ。

 帰りに、ミュージアム・クォーター・ウィーン内の書店(美術、建築関係)に寄った。非常に充実したショップで、いわゆる博物館(学?)関係の書籍は、レジの左横の棚の下の方にほんの少しだけあった。ドイツ語の本を買って帰ってもいつ読む(める?)か相当に怪しいので、英語の本だけを買って帰った。しかし、圧倒的に、芸術そのものを対象とする本で、書店は埋め尽くされていた。