Yさんとのお別れ

 虫屋のYさんがなくなった。おとつい、第一報を目にしたとき、人違いだったらいいのに・・・と、にわかには信じられなかった。
 年末の忘年会こと、海の向こうの見聞録発表会の日に、同じテーブルで一緒に、おでんなどをつついていたのに。

 Yさんに私の記憶に残る、はじめて(かどうかは定かではないが)お話を伺ったのは、2001年10月30日のこと。日時は、当時のノートをひっくり返して見つけた。
 この日、植物のS大先生にお話を伺うべく、大阪市立自然史博物館の外来研究員室を訪問した。S先生とのアポが1時からで、ノートの順番は、Yさんからのお話が先になっているから、何かの都合で、S先生をお待ちしている間に、Yさんからお話を伺ったのかもしれない。彼女は、植物の標本作製のお手伝いをされていた。虫屋さんだけど、彼女は植物にも強く、単に技術だけではなく、そのお人柄もあって、S先生が退官される3年前から、(この当時で、もう13〜4年)、博物館の植物標本整理のアルバイトをされていた。ノートには、交換用標本、とメモがある。
 Yさんと博物館との出会いは、昭和34か35年、まだ博物館が靭にあった時代で、お子さんを連れて、昆虫の行事に参加されていた。Yさんご自身が好きだったのと、家を空ける口実に、子どもをダシに使った、とのこと。まだ、友の会が自然科学研究会だった時代だ。博物館が長居に移転する頃にブランクがあり、新館オープン後、子ども抜きで博物館にかかわるようになられた。O先生の植物画の講座で復活されたそうだ。
 このあと、2001年当時の友の会運営の大変さに話が進んでいた。

 私の記憶の中では、私がS大先生にお話を伺っている間、植物をとめる細い紙をコテで押しつけておられたYさんが深く印象に残っている。
 彼女に弟子入りする間もなく、Yさんは突然旅立っていかれた。まだまだ、現役でおられると思っていた。
 最後のお別れのとき、彼女のお顔の横に、『靭公園の自然』が並べられていた。