『「51C」家族を容れるハコの戦後と現在』

 昨日に続いて、鈴木成文上野千鶴子山本理顕布野修司五十嵐太郎・山本喜美恵『「51C」家族を容れるハコの戦後と現在』(平凡社、2004)を読んだ。とても面白い。一人一人の発言が、次の論者によって次々要約され、塗り替えられていく展開になっている。

「高齢者だけの家族であるということは、その家族の自己充足性を破っているわけです。このときに初めて、家族と外側がどう関わるかが問題になると思います。ですから、家族の住む住宅の外と内がどう関わるか、住宅をどうやって外に開くかということを、単に廊下のつくり方や窓のつくり方といった建築テクニックの問題にしないで、本質的に外に開く理由があるのか、あるとしたらそれは何なのか、そこに戻って話をするべきだと思います」(山本理顕、p.119)
「私たち社会学者は、空間ではなく機能を開くということを考えます。家族のような閉じた集団の中で家族の機能は充足できなくなっています。子育て支援だとか介護支援といった外からのサポートがなくては、つまり外から内へ開かれなくては、もう家族はもたない」(上野、p.128)
「(51Cの)影響の本質的な部分は二つである。①鉄の扉(甲種防火戸)一枚で外部から全く隔離されるような形式の住宅であったということ。・・・それ以前の生活に比べて最も尊重されるべきなのはプライバシーだった。そして「鉄の扉」はそのプライバシーの象徴だったのである。・・・②そしてもう一つ。この閉じた形式の住宅に家族という単位が過不足なく収まるということ。(それはつまり、家族という単位も閉じた単位であるということである。)」(山本理顕、pp.157−158)
「山本利顕のこだわりは、戦後建築家の最も良質な志を引き継いでいると言っていいと思う。その『住居論』が明らかにするように、nLDK家族モデルとは全く異なった住居で育ったこと、世界中の居住集落を見て回った経験が大きいのだろう。むしろ、日本のnLDKが理念(擬態)にすぎず、現実の住まい方、住居形態が遥かに多様であるという確信が一貫としてある」(布野、pp.170−171)

 この本の中で出てくる、たくさんの「住み方調査」や、規範か現実かという議論は、さまざまな問いを私自身の中で増幅してゆくものである。
 論文ネタに無理やり引き戻すなら、「山本さんは住宅に限らず、最近、公共施設のコンペもたくさんとられていますよね。それは今の社会が求めているものに対して、はっきりとした答を出しているからだと思うんです。僕の言葉だと『絶対透明主義』なんです。それはガラスを多く使うといった透明性だけをいっているのではなく、システムや手続きの透明性などすべてを含めたもので、ある種の信仰にも似た強さを持っていると思うのです。それが現代の日本にマッチしているのではないか」(五十嵐、p.111)という部分が使えるのだろう。
 この本のもとになったシンポジウムの企画と実行が、1976年生まれの山本喜美恵さんによるものだというのも驚異的である。

 写真は、横須賀美術館のワークショップ室(2006年8月25日撮影)