『建築の可能性、山本理顕的想像力』

takibata2006-11-30

 咳がひどくて気力が衰え、惰性で山本シリーズ3冊目を読んだ。と書くと山本さんに気の毒だが。
 前2冊とかなりかぶるが、北京での「建外SOHO」、天津市郊外の「伴山人家」のプロジェクトがかなり詳しく書かれているのと、主体性をめぐる問いが本書の後半を占めるところが、目新しい部分だ。美術館に関しては、「住宅も集合住宅も学校も美術館も劇場も病院ももはや私たちの現実を担っていない。現実の要請と無関係なところで自己閉塞的な「内容」←→「容器」回路がただ一方的に稼働しているだけである」(p.205)と書かれている。
 また山本さんは「今時、巨大な市民ギャラリーや図書館やホールをつくるよりも、この商業施設や住宅が入り乱れている中に、その中の場面の一つとして、小さな例えば版画ギャリーのようなものや児童図書館やあるいは、市役所のコンピューターの端末が置いてあるとか、集会室があるとか、そういう公共施設が都市の中に点在していた方がはるかに都市にとっては有効なはずなのである」(p.57)とも書いている。
 山本さんは、「建築はもはやかたちではなくて、さまざまな人が参加できるような仕組みをつくること自体が建築じゃないかと思います。建築をつくる過程もふくめて、人びとが参加するシステムをつくるのが建築ではないのかと」と原広司さんとの対談で語っている(p.198)。その参加の中身が一番気になるところだ。
 本書には、「埼玉県立大学」や「公立はこだて未来大学」の事例も出てくる。「公立はこだて未来大学」の研究棟増築にあたっては、コア・スペース(研究者たちが所属と関係なく集まり、情報交換したり、インスピレーションを得るために、お茶を飲んだりしてくつろぐ場所)を研究棟の中心にしてほしいと求められた、と書かれている。こういう人文研モデルは多くの人が夢想するが、こういう設定に距離を感じてしまうのは、止まらない咳のせいだろうか。