『歴史とは何か』

 今年の初読書になるが、E.H.カー著、清水幾太郎訳『歴史とは何か』(岩波新書、1962:原著、1961)を読んだ。白馬大池への行き帰りに、コンパクトな本でまだ読んでいない本ということで、積読の一冊を持っていった。前半は、興味深く読んだが、後半は消化試合に。最後は、催眠効果抜群だった。不眠症の人には、お勧めの1冊。たぶん、訳文にも問題があるのだろうが、比喩的な言い回しが多く、もう少しはっきり言えよ!みたいなもどかしさがあった。
 そんな中で分かりやすかったのは、以下の部分。

 見る角度が違うと山の形が違って見えるからといって、もともと、山は客観的に形のないものであるとか、無限の形があるものであるとかいうことにはなりません。歴史上の事実を決定する際に必然的に解釈が働くからといって、また、現存のどの解釈も完全に客観的ではないからといって、どの解釈も甲乙がないとか、歴史上の事実はそもそも客観的解釈の手に負えるものではないとかいうことにはなりません。(34−35頁)

 相対主義の罠から抜け出すには、ありがたいお言葉だろう。北アルプスのふもとで、見る場所ごとに姿の変わる山のせいで(正確には、山の並び方、組み合わせが変わるからではないかと思うが)、ちっとも山の名前が覚えられない私にとっては、なんだか、大変納得のいく比喩だった。あと、

 歴史家というのは、自分の解釈にしたがって自分の事実を作り上げ、自分の事実にしたがって自分の解釈を作り上げるという不断の過程に巻き込まれているものです。一方を他方の上に置くというのは不可能な話です。(39頁)

のあたりは、昔読んだ、清水幾太郎『論文の書き方』で書かれていた、“具体と抽象の往還”というメッセージ(今、確かめると「経験と抽象との間の往復交通」と書かれていた)と非常に似ているなあと思った。
 もっと、変なポイントでは、ケンブリッジ大学では、教授の「就任講演」なるものがあった(現在もある?)のか!とか、高等教育史の資料として面白いと思って読んだ。

 この本を読んだのは、小田中直樹『歴史学ってなんだ?』(7月8日読了)溪内謙『現代史を学ぶ』(10月8日読了)と遡ったご縁。偶然だが、なぜか3ヶ月間隔。