西川喜朗先生最終講義

 おとつい(1月27日)、西川喜朗先生の最終講義「46年の追手門での教師生活をふりかえって」が行われた。西川先生は、私の博物館研究への扉を開いてくれた大切な方である。
 少しその事情を説明すると・・・追手門学院大学に縁あって就職が決まったあと、何気なく、予備校から大学入試用のパンフを持ち帰った。その中に教員紹介が載っていて、西川先生の頁に目がとまった。観察会の写真を使われていたのだが、説明文の中に、大阪市立自然史博物館友の会副会長と(確か)書いてあった。思わず歓声。
 というのは、さらにその前に、たまたま訪れた琵琶湖博物館で買った『博物館ができるまで』というイエローブックの中に、布谷知夫先生の書かれた「日本の博物館の歴史」という文章があって、その中に大阪市立自然史博物館大町山岳博物館等のことが書かれていたのだ。私の仕事(研究)の半分くらいは、布谷先生の短いこの文章の実証/反証を試みてきたことになる。その手始めが、大阪市立自然史博物館になる。
 追手門学院大学に着任して一段落ついた頃、恐る恐る西川先生のお部屋のドアをノックした。幸いなことに同じ建物の、同じフロアだった。西川先生は、快くお話をして下さり、博物館友の会の評議員さんたちを紹介して下さった。・・・というところから、私のへんてこりんな研究が始まった(へんてこりんなのは、もちろん私の問題である)。

 さて、前置きが長くなったが、西川先生の最終講義は、いささか意表を突くところから始まった。全部をまとめることはとてもできないので、個人的に印象の深かったところと写真でご紹介を(メモの復元なので、間違っている部分があるかもしれません)。

 上六に生まれ育った。焼け跡の草むらの原っぱが原風景。斑鳩が母の里で、カエル、ドジョウ、フナがいて、堤にはつくしがいっぱいあった。(この場所は今はその面影もないが)変化を見るということも、一つの大事なことだ。
 児玉先生と、キナバル山(サウスピーク4,100m)へ行った。右端が児玉務先生

(レアものの写真をたくさん見せていただきましたが、念のため、人物写真のアップは控えます)

 アシダカグモ(夜出てきて、ゴキブリを食べる)

 追手門には大学に44年、その2年前に、中学校で生物の非常勤講師をしていた。
 1979年には、ネパールのヒマラヤ(3,800m)へ。
 海外調査に誘われ、シッキムやタイ、台湾等へ行った。メクラチビゴミムシの新種を発見、上野先生が命名に際し、ニシカワの名前を学名につけて下さったことで、チビゴミムシを真剣に探すようになった。
 89、90、91年と台湾に行った。これはヘビを(持ち帰る道具で)、ヘビを折りたたんでガーゼでくるむ。ガーゼがなくなると、ステテコを引き裂いて、ヘビを持ち帰った。

ベトナムで毒ヘビに刺された話) 

毒ヘビはかまずに、刺す。チョイと毒を注入して相手の様子を見る。先に捕まえた頭のつぶれたヘビをリュックにしまった後、また同じ種類の毒ヘビが出て来たので、捕まえて、ビニール袋に2重に入れて、リュックの中の上下を入れ替えようとした瞬間、チクッとビニールごしに刺された。急いで仲間に連絡して病院(農家)へ。そこのおばあちゃんは、分かったと言って、庭の木の葉をちぎってきて、カレンダーを割いて、葉の汁をつけて指に巻いてくれた。同じ蛇にかまれ、血清のあるハノイの空港までタクシーで行ったヨーロッパ人は、死亡したそうだ。


 1995年、セアカゴケグモ高石市で発見された。その数年前、オーストラリアへ行って、有名な毒グモを調べてきた。高石市の工場でセアカゴケグモが見つかった時、博物館友の会で調査をしたのと、当時、日本蜘蛛学会の会長だったのと、オーストラリアで調査をしていたのと3つが重なって、マスコミから電話がかかってきて、大変なことになった。授業に出ている間だけがほっとできる時間で、授業中も、ドアの外でマスコミの人が立っていた。

(この当時、テレビで西川先生のお顔を拝見したのは、私も覚えている)

 このあと、オーストラリアのウンコムシにまつわる蘊蓄、桜の木はなぜ一斉開花するか、蛍の生息域の話、カンガルーの雄におっぱいはあるか、12進法、などなど、西川先生の様々な疑問がいっぱい紹介され、いかに普段から、いろんなことに疑問を持ち続けておられるかがよく分かった。生物の世界には、解明されていない謎が山ほどあるのだ。

 (クモのヒゲの先と、メスの生殖器、分布図)

オスしか見つかっていないところでメスを探したいので、1年早く、大学を辞めることにした。

 (標本の整理と、上記の理由で1年早く退職されるそうだ)

 今回の最終講義は、嫌がる西川先生を志水先生が、「西川さん、学生にまだ言い残したことがあるでしょう」と言って、説得して下さったのだそうだ。だからお話は、学生に、疑問を持って探求しなさいという強いメッセージが込められていたのだと思う。
 最後の締めくくりがふるっていて、「もしも、地震でガレキの下に閉じ込められたら、自分のおしっこを飲みなさい。おしっこ飲んでも大丈夫。しょっぱいけど、日によって味が違うけど、いざという時には、飲んでのどの渇きをしのぎなさい」というものだった。本当にご自身で試しに飲まれたそうだ。

 ごく個人的には、「文献」でしか読んだことのなかった「西川家の犬」ノラ君の写真を拝見できたこと。Nature Studyに出てくる「塀の上に乗っている犬」の話はよく覚えていて、「蛇取り名人」とか「蛇袋」同様、西川先生とセットなのだ。さすがに、「生玉子の話」は最終講義ではなかったが。